2017年2月20日月曜日

ブログ移転のお知らせ


 当ブログの最新記事は、今後、【http://inagaki.ichinokai.info/】へ投稿してまいります。

 「心の平穏を取り戻すための六ステップ」も、そちらで仕上げますので、どうぞよろしくお願い致します。

2017年2月10日金曜日

2016年度『一の会・東洋医学講座』を終えて



 僕は、「経絡治療」と呼ばれるメソッドを、ずっと否定してきました。

 なぜなら、生体が発する情報は常にアナログなはずであり、それを活用した療法も自然とグラデーションのような差異を描くはず。

 ところが、「経絡治療」では、病態が一段階ずれただけで、治療点は膝から手首付近へワープしてしまうのです。

 病を量的異常でなく、質的異常として捉えている証拠ではないでしょうか。

 それでは未病治は出来ないはずなのです。

 例えば、腎と肝との間の異常に接したならば、どちらかの異常に固定化するまで手をこまねくしかない訳ですから。

 
 と、思いきって偉そうなことを書いてみましたが、「経絡治療」への対抗心のお陰で、僕ごとき非才が宝石のような診察法を確立できるかも知れません。


 2016度最後の『一の会・東洋医学講座』(当日の様子はこちらのブログに報告してあります)で公開した脈診は、生体をアナログなまま理解し、アナログな治療につなげることを目的とした診察法です。

 それは、手太陽と手少陽との間の異常に接したならば、それを見極めた上で、単純に養老や会宗の力を借りれば良いということです。

 流注の揺らぎは、そうやって人の病み方を教えてくれているのだと思います。


 何かを否定した以上、責任を持って、対案を示していきたいと思います。

 僕は、鍼灸師だけでなく、ありとあらゆるセラピストのために、歴史に埋もれてしまった脈診法の発掘を続けていくつもりです。

 すべてのセラピストが、自身の施術への無力感や疑心暗鬼から解放され、確証と共に力強く人体へ立ち向かっていけるように。

 「医なき世界」を実現するための、僕に思い付く唯一のやり方です。


2017年1月31日火曜日

「一発で」

 
 
 難病患者さんといえども、その人のすべてを救いたいと望んでいるので、一時的な急変を治められた程度ではとても満足できない。
 
 むしろ、急変を許してしまったことが課題に思え、付け入る透きのない針灸への探求心は高まるばかりだ。
 
 ──などと、自らのストイックさをいささか過剰に演出してみたが、今日のオレは、針灸師になって以来、初めてと言って良いほどの平静さで午後の診療時間を迎えている(声:田口トモロヲ)。
 
 
「声はまだこんなだけど、随分と調子は良いのよ。一発で治ったよ、一発で」
 
 患者さんは、往診の翌日、電話越しに、「一発で」という言葉を数度、その事実を自分でもかみ締めるようにしながら、この僕に伝えてくださった。
 
 難病そのものは、当然、まだ治った訳ではない。
 
 
 達成感を得た訳でも、向上心を失った訳でもないのに、今日の心はやけにおとなしい……。
 
 お世辞でも気休めでもない、本物の言葉に、僕は救われたということなのだろうか。
 
 重みも味わいもある、ありがたい言葉だった。
 
 
 右・太谿・灸 かつ 右・復溜・1番針
 左・内関・灸 かつ 左・郄門・1番針
 
 要・経過観察 ⇒ 缺盆・気戸(特に左)
 
 

2017年1月24日火曜日

妊婦さんの不整脈の再発と、その原因

 
 
 前回の投稿では、妊婦さんの不整脈が針で治まった話を紹介した。
 
 で、当時から二十日ほど過ぎたこの頃、不整脈をまた起こされ、対応を相談されたのだが、そこで贈ったアドバイスが他の人にも役立つかも知れないと思ったので、追記しておく。
 
 
 
 東洋医学では、一般的に、病には三種の原因があるとする。
 
気候の変化
 
感情の鬱積
 
③ 不適切な生活習慣
 
 大雑把に言い切ると、上の通りである。
 
 
 
 不整脈は、日本列島が寒波に見舞われ、雪が降り始める直前に再発したので、①の影響が考えられる。
 
 また、②についても、妊婦さんはこの数週間、努力と集中を要する課題を抱えておられので、その発生と悪影響はあらかじめ考えられた。
 
 しかし、僕が指摘の必要性を最も心配していたのは、③の中の、食についてであった。
 
 
 
 生活習慣上の問題については、惰性や信念が絡むので、アドバイスを贈るのも、聞き入れてもらうのも、難しいことだ。
 
 だが、一度完治していたものが再発したとなれば、完治から再発までの生活の中に、改めるべき何かがあると、無理なく振り返っていただくことが可能になる。
 
 僕は、牛肉乳製品バタークリームにも注意)・脂の多い青魚ニンニクニラ・唐辛子・コショウに気を付けてくださるよう助言した。
 
 果たして、妊婦さんは、このところ、牛丼とサバを愛食していたとのことだった。
 
 
 
 食べ物の好き嫌いは、心や体にとっては何らかの必然性があったりするので、必ずしも改めるべきだとは僕は思わない。
 
 けれど、何らかの不調に悩んでいる人は、不調が強まる前、自分が一体何を飲食したのか、振り返ってみるのが良いだろう。
 
 食材を変えるだけで医療費が節約できるなら、それに越したことはないと、医業者でありながらも僕は思う。
 
 上で挙げたのは、パワフル過ぎて、体に悪影響を与えやすい食材たちである。
 
 食後、数時間で、肩凝りなどの悪化を感じる人も居ることだろう。
 
 

2017年1月17日火曜日

妊婦さんと、不整脈と、左・間使・瀉法の針

 
 
 「傷の治りが悪くなった」と、ある妊婦さんがおっしゃった。
 
 「太ももに大きな傷口が出来た時でさえ、ガムテープを巻いてくっ付けていたら治るほどだったのに」と言いながら、手の甲に出来たかさぶたを見せてくださった。
 
 僕にとっては、実に見慣れた、自然なかさぶたであった。
 
 
 
 一方、更に前には、「胎動が異常に早く起こり始めた」ともおっしゃっていた。
 
 「妊娠時期から計算すると、胎動はまだあり得ないはずなのに、エコーではどう見ても胎児は動いており、お腹も蹴ってくる」とのことだった。
 
 
 
 まるで、神話の一つに立ち会っている気分だ。
 
 関羽や弁慶のような英雄がまたこの世に生まれるならば、このようにして生まれてくるかも知れない、と思ったりした。
 
 その妊婦さんの人並み外れた生命力を、胎児が、人並み外れた速度で吸い上げているということだろうか。
 
 まぁ、英雄が誕生するかどうかはさておき、世界で唯一の物語が美しく進んでいる様子を見られるのは、嬉しい限りだ。
 
 まずは、妊婦さんの頑固な不整脈が、左腕への痛~い針で、無事に治まって良かった。
 
 弁慶などとは真反対の、僕という貧弱な男も、引き続き経過を見守らせていただこう。
 
 

2017年1月10日火曜日

心の平穏を取り戻すための六ステップ (2)

 
 
ステップ 1 : 心を平穏にすると決意する 】の続き
 
 
 
 「心の平穏を取り戻すために自分自身の力を使う」と決心したのに、それでも心が治まってきそうにない人へ、次のステップを捧げる。
 
 
 

ステップ 2 : 相手を否定し尽くす。

 
 ただし、相手の否定は、ゴールではなく、単なるスタートである。
 
 ゴールは、真の謙虚さを身に着けること。
 
 その第一段階として、まずは、自分の心の乱れに関わった相手を否定し尽くせる能力が必要なのだ。
 
 順番に力説していく。
 
 
 

謙虚さが心の平和の鍵

 
 極論を言うと、真に謙虚であれば、心が乱れることはない。
 
 「最近の若者はおかしい。自分たちの若い頃は……」と説教じみたことを言う人は、「かつての自分こそが若者の本来あるべき姿である」と大なり小なり思い上がれているから、そう言えてしまう。
 
 「若者の本来あるべき姿は一体どのようなものだろうか」と、若者という存在に対して常に探究を続ける謙虚な学者なら、どのような若者を見ても腹を立てたりはしない。
 
 「大人はウザい」と不満げに言う若者についても同様だ。
 
 もし「大人にはどうしようもなくうっとうしい人もいる」と最初から割り切っていたなら、そのような愚痴は生まれない。
 
 まだ自分が大人になってもいないのに、「大人は若者を理解しきった上で包み込むべき存在」といった期待を固めていたりするから、失望を味わい、ショックで心を乱す。
 
 あらゆる先入観を捨て、「実際に接してみるまで世界のことは何一つとして分からない」という謙虚な思いを日々のどの瞬間でも持てたなら、人生には心を乱している暇など存在し得ないはずである。
 
 
 

謙虚さを身に着けるためには

 
 とは言え、「実際に接してみるまで世界のことは何一つとして分からない」という思いを日々のどの瞬間でも持ち続けることは、多くの人にとって難しく、恐ろしい行為だと理解できるだろうか。
 
 それは、「普通の感性」や「世間の感覚」、更には「日本人らしさ」などの、いわゆる常識といった種類のものに頼らない生き方。
 
 実家の玄関の扉を開ける時でさえ、その向こう側に居る母親が肉体的にも精神的にもどういった状態であるか、一切の可能性を排除しないような生き方。
 
 いつでも全てが起こり得ることを前提とした、安心や安全を依存しない生き方。
 
 この何事も決め付けて掛からない不安定な生き方──別の見方をすれば、水のように自由自在な生き方──をするためには、完璧な自己肯定感が必要になる。
 
 内的な確実さを実感できて初めて、外的な不確実さは受容されるのである。
   仮に、内的に不安定なまま外部の千変万化を受け入れようと背伸びしてみても、千や万の可能性に圧倒されて神経をすり減らし、結局は根拠のない安らぎを求めてさ迷い始めるのが落ちだ。
   内面が堅実でない人ほど、つい、自分に制御可能な領域のはるかかなたに心の支えを求めるという、無謀かつ危険な生き方をしがちなはずである
 
 
 

本物の自己肯定

 
 真に謙虚な人は、真の自己肯定感を持ち合わせている。
 
 と言うより、真の自己肯定感が無ければ謙虚さは実践できないと言った方が正しい。
 
 謙虚さとは、世界の緻密さを注意深く観察し続ける姿勢だ。
 
 そこに、自分のことを嫌ったり好んだりしている余裕は無い。
 
 顕微鏡や望遠鏡が、自分の周囲を観察することには不向きなように。あるいは、自撮りモードにしたスマホでは、目の前で起こったハプニングの撮影には間に合わないように。
 
 実は、自己肯定とは、自分を好きになることではない。少なくとも、そこがゴールではない。
 
 自分を好きだと思い続けている間は、自分との比較対象がどうしても必要になる。それは、人によっては他人であったり、過去の自分であったりするけれど、好きという感情の発生源として、何らかの価値基準に依存せざるを得ない。
 
 そこで、もし価値基準としている他人が自分よりも幸せになったり、自分の現状が過去よりも不幸になったりしたら、心の乱れは起きない方が不自然だ。
 
 自己肯定感とは、本来、そのように危ういものではない。
 
 本物の自己肯定感とは、自分への関心から自由になれている感覚
 
 自分の全身に全霊が収まって、外界との関わりに意識が専念できている状態──それが自己肯定の真に実践された姿だと、僕は考えている。
 
 その時、自分の視界から自分という存在は消え去り、世界には他者しか居なくなる。
 
 
 

自分を肯定するために

 
 自己肯定感の大切さは、世間でもよく言われていることだ。
 
 しかし、自己肯定感が本当に乏しい人にとって、世間のメッセージは、生ぬるいものばかりではないかと僕は心配している
  例えば、「自分を愛せない人間には、他人を愛することも出来ない」といった種類のメッセージがある。
  これは、裏を返せば、「他人にいつも気を遣っているのと同じかそれ以上に、自分自身にも気を遣ってあげてね」という、自愛を促すメッセージでもある。
  「自分を大切にするのは他人のためでもある」と説き、自己肯定の正当性を訴えているのだが……「他人」を視野に入れたメッセージでは、他人の目を気にし過ぎる人に対しては、僕の経験上では届き切らないように思うのだ
 
 なぜこのような力弱いメッセージが世間には存在しがちかと言えば、実に多くの人が、恐れからは逃れられずに生きているからだろう。
 
 「あなたはあなた自身を最優先にすべき」というストレートな言葉が少ないのは、その手の言葉を贈った自分が「あなた」に害される可能性を恐れているからではないか。
 
 人間同士の、利益を奪い合う関係性以外の側面に、光があると信じ抜けないからではないだろうか。
   それはさておき、「あなたはあなた自身を最優先にすべき」と言われたとしてもなお、なかなかピンと来ないであろう、長きに渡って自尊感情が低い人に僕がお勧めしたいのは、「相手を否定し尽くす」ということだ。
   自分の心が乱れた時は、まず、その原因となった相手を、容赦なく否定してみて欲しい。
 
 この時、相手への同情・譲歩・思いやりなどと呼びたくなるものは全て捨て去り、心の底から相手を拒絶し尽くすこと。
 
 相手からの好意や、相手への恩義も、勇気を出して無視し尽くし、否定に徹する。
 
 これを肉親のように身近な相手に実践するのは特に難しいはずだが、情の湧きやすい相手にこそこれをやり遂げた価値は出る
 
 相手を否定して、否定して、否定し尽くして、自分の意識の置き場所を自分以外からは撤収する
 
 心の乱れは、自分が「自分だと思い込んでいるもの」を極限まで削りきる、絶好の機会だ。
 
 そして、自分が「自分の立場だと思い込んでいるもの」を、「実際の自分の足の大きさ」にまで削りきれた時、世界の見え方は一変する。
 
 窮屈で歩きにくいと思い込んでいた世界が、新しい自分には、隙間だらけの歩きやすい世界に見えてくる。
 
 
 

苦しさの正体


 「あの人の気持ちはよく分かる。けど……!」という枕言葉から愚痴を開始する人を度々目にするが、これは、前で述べた謙虚な生き様とは真逆の姿だろう。
 
 相手の気持ちが本当によく分かるなら、相手が特定の行動を取らざるを得ない事情が痛感されて、軽はずみなことは滅多に言えなくなるはずだ。
 
 分かっていないものを分かっていると豪語するのは、傲慢きわまりない生き方だと言える。
 
 逆に、本人にしか理解しきれていない事情というものは、どのような場合でもちゃんと存在するのだから、人は皆、虚飾に頼ったりせず、自分の人生を根拠にして、堂々と意見を説明しきって良いのだ。
 
 本来、人には、その人がそう感じたという理由だけで、感じたものを正当化する権利がある
 
 なのに、その権利を疑い、自分ならではの立ち位置をおろそかにして、他者の領分にまで意識を遊ばせたりするから、不平や不満が生まれてしまう。
 
 そのようにして生まれた心の乱れや苦しみは、自分の立場と相手の立場という、必ずしも相いれないものに足をまたげたせいで起こった、股裂きによる痛みのようなものだ。
 
 自分の今の立場から足を離す覚悟も無い癖に、欲張って相手の立場へと侵略を仕掛けたせいで、股裂き状態に陥ってしまったのだ。
 
 他者との関わり方で、自分の思い通りの反応しか許す気が無いものは、人権への「侵略」と呼んで良いだろう。
 
 他者を、自分の正当性を強化するための道具としてしか見れなくなれば、侵略という態度を取ってしまうのも無理はない。
 
 それを防ぐには、自分の正当性や、自分ならではの根拠を、自分自身で見失わないようにすることが大切だ。
 
 もし、あなたの心の乱れの原因として、この種のものが思い当たるなら、どうか安心し、落ち着いて対処して欲しい。
 
 心配は要らない。誰かの保証など得なくとも、あなたは既にオンリーワンの存在だ。ただ、それを思い出せば良い。
 
 例えて言うなら、あなたはこの世界で唯一のスーパーマリオ。
 
 あなたに操作が可能な唯一無二のキャラクター
 
 あなたには、クリボーとノコノコの強弱や、ピーチ姫とクッパの美醜について論じる資格は十分にあるが、クリボーたちを、マリオとだけは比べてはならない。
 
 他人同士を比較するのは一向に構わないが、他人と自分とを単純に比較してはいけないし、比較すること自体に意味は薄いのだ。
 
 自分の唯一無二性だけは忘れてはならない。
 
 自己肯定とは、他人と自分との比較の不可能性に気付くことでもある。
 
 
 

今回のまとめ


 感情的な物言いがやめられない人は、意外かも知れないが、まだ自己を肯定しきれていなかったりする。
 
 どこかに罪悪感や自己不信感を持っていたりして、他者への拒絶が甘かったりする。
 
 自分への保証を欲する余り、自他の境界線を曖昧にしていたりする。
 
 それが心の隙となり、また新しい乱れを生む。
 
 あなたの心が乱れた時、あなたはまず、世界で最も確かな居場所へ帰らなければならない。
 
 相手を否定することは、あなたの帰還を助けてくれる。
 
 宙へ浮かんだ心は、壁を蹴ることでしか進めない。
 
 蹴りをためらう時、その壁には、あなたが以前に貼りに来た、あなたの顔写真がある。
 
 あなたは、その壁をよけることも出来るし、顔写真を回収してから蹴ることも出来る。
 
 本当は、顔写真ごと蹴っても良い。
 
 ためらいの原因は、蹴ろうとした壁に、自分そのものが居ると錯覚するからだ。
 
 あなたの顔写真は、当然、あなたそのものではない。
 
 同様に、他者への否定をためらう時、あなたには、回収すべき何かがある。
 
 自分自身だと思い込んでいる、自分以外の何かがある。
 
 心の平穏を取り戻すためには、あなたは、真のあなたに戻らなくてはならない。
 
 借り物の道徳からも卒業しよう。
 
 あなたが既に苦しいならば、善と信じているものに悪があり、悪と疑っているものに善がある。
 
 癒やしは、心の変化によってのみ訪れ、心の交換によって訪れることはない。
 
 つまり、あなたの心自体は、罪でも悪でも不良品でもない。
 
 あなたの全身全霊は、善悪よりも確かな事実。世界そのもの。
 
 あなたは、他者との縄張り争いから解放されて良い。
 
 あなたの心は、窮屈な場所へも快適な場所へも、体内へも宇宙へも、自由自在に行ける。
 
 最初からそうだった。だからあなたは、不要な苦痛も背負い込めたのだ。
 
 
 
【 ステップ 2 で心の平穏を取り戻せた実体験 】
 
【 ステップ 3 】へ続く
 
 

2016年12月24日土曜日

西中島のお菓子屋さん『パティスリー・ジョナ』

 

 
 いおり鍼灸院の副院長として大阪市淀川区西中島で働いている以上、西中島の経済(経世済民)に貢献したいとはいつも考えている。
 
 なので、今年のクリスマスは、西中島にあるパティスリー・ジョナでケーキを買うことにした。
 
 
 
 このお店のパティシエは、何と、『ビゴの店』で修行されたそうだ。
 
 ビゴさんは、「私の店では腕時計を好きな者は採用しない」という言葉で僕に影響を与えた人物だ。
 
 その言葉の真意は──腕時計で分かる規則正しい時間は、酵母を扱う人間には逆に信頼できないもの。気候や天候に応じて時間の尺度を自在に調整できることこそ、発酵に携わる人間にとって必要な資質。発酵に必要な時間は五感を頼りに導き出せるよう修行すべし──ということだった。
 
 
 
 上記のエピソードを知ったのがいつかはもう記憶にないが、自分が針灸師を目指し始めて以降、自分にとっての腕時計が何なのかは時々振り返るようにしてきた。
 
 その結果として、まず、どんなにつらくて心細かった時でも、病院へは行かないようにした。
 
 もちろん、服薬もしない。
 
 最近は漢方薬も含めて飲まないようにしたし、サプリメントは飲んだことがない。
 
 添加物を避けたり運動したりといった無条件で体に良いとされることも、全般的に、なるべくサボるようにしている。
 
 自分が食べたがっているものを食べ、寝たがっている時に寝、生きやすいように生きる。
 
 ここでの「自分」には、本能や思考といった「自分の断片」だけでなく、「ありとあらゆる自分」を含めるようにしているので、気が向きさえすれば、関西人として恵方巻を食べてみたりする。現代日本の一亭主としてクリスマスケーキを予約してみたりもする。
 
 唯一、自分に強制するのは、針灸だけ。
 
 患者さんたちの生活様式から不自然に遠ざからないようにしながら、針灸のみで自分の健康を維持かつ増進し続ける。
 
 当面の僕にとっては、それが腕時計を外すことであり、腕時計を外した上で取り組むべき修行のつもりだ。
 
 

2016年12月21日水曜日

心の平穏を取り戻すための六ステップ (1)

 
 
 今から書くのは、僕が心身共にどん底だった十六歳の頃から、自分を立て直す中で身に着けてきた心の鎮め方のコツである。
 
 ただし、僕は、知り合いから「変態」と呼ばれている男だ。
 
 悲しいことに、常人ではないとする説がある。
 
 だから、タイトル通りに僕なりの『心の平穏を取り戻すための六ステップ』というものを書いてみたところで、誰かの役に立てる可能性は低いかも知れない。
 
 けれど、この手の流儀についての自分の引き出しを整理したいという欲求が最近になって高まってきたため、取りあえず汎用性は無視して書き出してみることにした。
 
 
 

ステップ 1 : 心を平穏にすると決意する。


 「平穏に出来ないから困っているのに、間抜けなことを言うな!」と思われただろうか。
 
 まずは落ち着いて、あなたが他人に愚痴を聞かされ続けてウンザリした時のことを思い出してみて欲しい。
 
 あなたには、その時のその人が、心の平穏を取り戻そうと努力している人に見えただろうか。
 
 自分を平和にするための手段を心の底から探し求めている人に見えただろうか。
 
 当たり前のことだが、どんなに簡単なことであっても、問題は解決しようとしない限り解決されない
 
 それが困難な問題であればあるほど、出来るだけ早くスタートラインに着く必要がある。
 
 心を平穏にすると決意することは、心の平穏を実現するための能力が自分にはあると信じきることだ。
 
 それは自分自身を信じることであり、自分との信頼関係を取り戻すことなのだ。
 
 自分とのつながりさえも乱していては、他人と快適につながることなど絶対に出来ない。
 
 愚痴を言い続ける相手があなたのアドバイスを気にも留めなかったりするのは、相手がまだ状況の改善を決意していないからであり、自分自身を見失っているからだ。
 
 あまりにも当然すぎてついおろそかにしてしまいがちだが、問題を抱えた時に必要な一歩目は、その解決を決意すること
 
 つまり、人生の主導権を握り返すこと。
 
 これさえ出来れば、実は、状況の半分以上は既に改善されたようなものだ。
 
 以降のあなたは、改善のためのヒントや助っ人が自分の周りには満ちあふれていたと気付かされ、驚くことになるだろう。
 
 
 

2016年12月17日土曜日

針灸・覚え書き「寸関の数脈と尺中の遅脈」

 
 
 数年振りの胸膜炎で、夜も眠れないほどの激痛に苦しんでいた鍼灸師学科の学生さんを、二日連続の針治療で改善できた。
 
 ご本人の経験則を上回る早さで治まったとのことで、大変喜んでいただけた。
 
 二日目の夜は、横になって熟睡できたとのこと。
 
 ただし、一日目の夜は、深夜に痛みがぶり返し、座位で耐えるしかなかったとのことだった。
 
 それでもその人は、自分で応急の井穴刺絡をし、痛みを軽減してしのいだ上で、二日目も信頼して僕に任せてくださった。
 
 普通の患者さんなら、もう病院へ行っていただろう。
 
 特別な事情をお持ちで、針灸などに頼るしかない患者さんだった。
 
 つまり、二度目の機会は、あらかじめ信頼と事情があったからこそ頂けたもの。
 
 針灸に疑心暗鬼な人に対しては、一回で決めきらねばなるまい。
 
 針灸がこの現代で認められるには、抗生物質などの効き目に圧倒的大差で勝つ必要がある。
 
 僕が針灸とは無縁の患者なら、それを期待するだろう。
 
 幸い、この件のお陰で、次なる高みへの糸口はつかめた。
 
 一回目の施術後、痛みが引いた後でも残った「寸関の数脈と尺中の遅脈」というギャップをこちらが埋めきってから帰宅してもらえば、ぶり返しは防げたはずだ。
 
 西洋医学的には理解しがたいことだが、手首の近辺では脈拍は速く、手首の際から数センチほど遠いところでは脈拍は遅いという現象が起きていたのだ。
 
 金匱要略における大黄牡丹湯の条文を思い出す。
 
 脈の遅速で、内臓の化膿の有無を判断しようとしていた。
 
 「寸関の数脈」は炎症の継続を意味していたのかも知れない。
 
 ならば、その遅速の差をその場で埋めきる手段を見付けることが、意味を持つはずなのだ。
 
 

2016年12月15日木曜日

妻との出会い

 
 
 
 2011年の四月、進学した先で実際に妻と出会った時、とっさに僕が感じたことは、「思っていたよりかわいくないのが残念だ」であった。
 
 厚かましい人物評をしたものだ。
 
 しかし、初対面の、現時点ではどんな容姿でも構わないはずの相手に「思っていたより」という言葉が湧いてきたので、その時は自分でも驚いた。
 
 また、「残念だ」という、諦めと覚悟のこもった言葉が湧いてきたことにも戸惑った。
 
 ところで、その時の妻は、病み上がりで表情が硬く、更には常用薬の副作用で顔がまだよく腫れており、それらのせいで僕に「かわいくない」顔だと認識されたに過ぎないことをここで強く主張させていただく。
 
 近頃は、美人という褒め言葉を時々頂戴しては、うれしそうな良い顔を見せてくれる妻である。
 
 
 
 1995年の秋か冬、姫路市の白国という交差点に掛けられた歩道橋をくぐる寸前、僕は小学校・中学年ぐらいの女の子の顔を見た。
 
 母の運転する車の助手席に乗り、高校へ送ってもらっている途中での出来事だった。
 
 増位本町にあったダイエーかサティかの前を通り過ぎながら、母は、何とか僕を奮い立たせようと、「あんたよりつらいのにもっと頑張っとる人もおるねんで」と激励してくれた。
 
 当時の僕は、持病の関節痛を長引かせすぎて、精神面も自律機能もおかしくなっていた。
 
 車中で母の責任感と僕の反発心とがぶつかり合い、憤りを抱え込んだ僕の意識は遠くに飛んで、役所か病院のようなコンクリート作りの建物をすり抜け、一人の女の子を見た。
 
 「この流れでこの子の顔が見えたということは、今のこの子は明るくかわいく笑っているけれど、本当は何か大きな病気と戦っている子なんだろうな」と思った。
 
 その子の丸顔は、その時から、僕にとっては「自分よりつらいのにもっと頑張っている人」の象徴となった。
 
 
 
 とは言え、その体験がすぐに僕を救ってくれた訳ではない。
 
 そこからも更に十年ほどは、自分の殻に閉じこもってばかりだった。
 
 自分のつらさは所詮は「よくあるつらさ」であり、だからこそこれを自力で改善することには需要がある、そのためのノウハウは必ずどこかで誰かの役に立つ、と前向きに思い直せるまでには時間が必要だった。
 
 そうして自分ならではのリアルなモチベーションを手に入れた後であっても、無敵モードとは行かないのが多分人生。
 
 実際に妻と出会い、この人があの女の子だったのかも知れないと徐々に思い出し、付き合え、結婚できて以降も、試練は色々な形で容赦なくやってくる。
 
 運命は完全に僕の味方かも知れないと思えた直後でさえ、ガツンと来る。
 
 けれど、自分の健康を立て直すために身に着けざるを得なかった針灸が、今、妻をステロイドから自由にするための挑戦にも使えていることを考えると、ゆっくりであっても、自分のプロセスの全てが綾となり、何かを組み上げてくれているのだと信じることが出来る。
 
 
 
 『君の名は。』を見た後、人によっては、もしかしたら、自分の人生には「みつは」の「み」の字の一画目の横線どころか点すら存在しないと思われて、強烈な虚無感に襲われたかも知れない。
 
 それでも、予兆があろうとなかろうと、人はいつか、会うべき人に会う。
 
 その時、否が応でも試されるはずだ。
 
 孤独の中を真面目に踏ん張ることで磨かれてきたはずの、自分自身の力が。
 
 

 

2016年12月12日月曜日

映画『君の名は。』に便乗する

 

 
 永松先生の絶賛の影響もあり、映画『君の名は。』を夫婦で見に行った。
 
 すると、映像は予想以上に美しく、音楽は期待通りに感動的で、つまりは上映時間の端から端までが至福の瞬間の連続。
 
 妻とは一緒に居られることがもう当然になりつつあったけど、妻と出会え、名前を知れて今があることに、改めて感謝し直すきっかけまでもらえた。
 
 振り返れば、本当にありがたい今だ。
 
 今回は、映画に触発されたので、普段ならためらって話さずにいたことを書いておこうと思う。
 
 
 
 人と実際に会うより前に、意識だけでその人に会ったという経験が、少なくとも二回、僕にはある。
 
 会ったというより、一方的に姿を見たと表現した方が適切か。
 
 
 
 そのうちの一人は、大阪医療技術学園専門学校東洋医療技術教員養成学科奈良上眞先生
 
 2011年の一月ごろ、いおり鍼灸院院長の金澤先生のご実家で、金澤先生から僕の今後についてのアドバイスを頂いていた時。
 
 上記の教員養成学科への進学を勧められていたところで、僕は、金澤先生の目の奥に、奈良先生の姿を見た。
 
 光沢のある黒髪、ガッシリした下顎、眼鏡の奥の真剣なまなざしが印象的だった。
 
 当時は教職にも教育にも熱意を持てずにいたが、そのタイミングでそういった不可思議な現象が起こったことの必然性を信じ、進学を決意した。
 
 お陰で、進学の動機を人から聞かれた時は、適切な説明に苦労した。
 
 
 
 もう一人、事前に姿を見た人は、その年の四月、進学した先で十六年越しに出会うことになった妻である。
 
 
 
妻との出会い 】に続く

 

2016年12月7日水曜日

推薦ブログ『グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート』

 
 
 自分が勉強してきた東洋医学のことをブログに残そうと思ったのには、『グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート』というブログに出会えたことも大きく影響している。
 
 そちらのブログでは、現代社会を生きる上で役に立つ経済に関する知識が、惜しむことなく記載されている。
 
 その上、経済上の基礎かつ要点ばかりが、平易かつ合理的に説明されており、著者の見識を読者が少しでも身に着けられるよう配慮しながら導いてくれているのである。
 
 更に、文章が、一つの読み物として面白いのも素晴らしい。
 
「無知による判断は罪である。相場なら即刻金を失うだろう」
 
 僕ならば、「無知による判断は罪である。針灸漢方薬なら即刻健康を損ねるだろう」と豪語したいものだ。
 
 僕のブログでは、直前の漢方薬(葛根湯加川芎辛夷)についての記事のように、現代社会を生きる上で役に立つ伝統医学に関する知識を書いていきたいと思っている。
 
 

2016年12月6日火曜日

「葛根湯加川芎辛夷」に医師の無情を見る

 
 
 妻の老後の健康を思えば、漢方薬の知識も書き残していくべきだろう。
 
 葛根湯加川芎辛夷という漢方薬は、クラシエの Web サイトなどで、鼻づまりに効くとされている。
 
 しかし、鼻づまりへの効能などは、実はささやかなおまけでしかない。
 
 
 
 葛根湯加川芎辛夷は、葛根麻黄桂皮甘草生姜大棗芍薬川芎辛夷の九つの生薬で構成されている。
 
 まず、甘草は、患部の一点に向かって苦痛が集中する状態(ある種の頭痛時や腹痛時など)に適す。
 
 桂皮は、体の表面を冷やしたことで起こる上方への突き上がり症状(ある種の頭痛やえずきなど)に適す。
 
 川芎は、血行不良に由来する体の冷えや偏頭痛に適すとされている。
 
 麻黄は、呼吸のしづらさを伴いながら節々がうずいて痛む人に適す。
 
 生姜は、胃腸に水がたまって起こる吐き気や下痢などに適す。
 
 続いて、大棗は、体や心の筋張りに適す。
 
 芍薬は、体が緩まないせいで関節の運動が障害されているものに適す。
 
 葛根は、うなじや背中がこわ張って姿勢が縮こまっている人に適す。
 
 最後に、辛夷は、ある種の鼻づまりに適すとされている。
 
 
 
 桂皮川芎は、漢方理論で言うところの「血」を温め、その運行を促進する。
 
 麻黄生姜は、漢方理論で言うところの「水」を温め、その余剰が汗などで排出されるのを助ける
 
 この葛根湯加川芎辛夷を、鼻づまりの改善を目標に、一年以上も処方され続けている人がいた。
 
 その人の衣服からのぞいた首元や肘などは、真っ赤。 
 
 辺りに広がっているかさぶたからは何度も肌をかきむしって出血を起こしていること、分厚くなった皮膚からは何度もかゆみをぶり返しながら長い年月を過ごしてきたことが読み取れる。
 
 傷口を作ることで血の勢いを逃がしたがっている人に、桂皮川芎で、血行を促進
 
 多汗かつ乾燥肌に苦しんでいる人に、麻黄生姜で、発汗
 
 あの皮膚の状態を見て、何も感じない人間など居るだろうか。
 
 自分の仕事の影響を振り返ることもせず、一年以上も同じことを単調に続けられる医療従事者など居るだろうか。
 
 医療従事者は、何のために仕事をし、何のために患者と会い、何のために漢方薬を買わせていたと言うのか。
 
 末尾に偉そうなことを書き残したが、それは自分への教訓とするためであり、自分の仕事に心を込め忘れることを防ぐための一助にすべきと感じたからである。
 
 

2016年12月2日金曜日

最期から逆算する

 

 
 行き慣れたサンドイッチ屋さんが無くなる。
 
 確か、2012年の夏か秋かに玉子サンドを買ったのは、この店だったはずだ。
 
 今は自分の妻である人の病み上がりに際し、何か食べたいものはないかと聞いてみた結果、ここの玉子の詰まり具合を見せてやろうと、得意げに買っていったように記憶している。
 
 その正誤を確認したくなり、以前にバックアップしておいたメールフォルダを開いてみたところで、唐突にある種の死が見えた。
 
 苦しい、息が。
 
 今も揮発しきっていない、かつての付き合い立てカップルがかもし出したエクストラピーチ香が、僕の肺胞内の酸素分子と化合していく。
 
 キュン死──。
 
 老後の楽しみに寝かせておいたものを、早まって開けてしまったのがまずかった。
 
 記憶の確認は、まだ先送りにしておこう。
 
 
 
 色々な占いによると、僕は長生きをするらしい。
 
 自分で東洋医学的なケアもしているので、106歳ぐらいまで生きるかも知れない(笑)。
 
 妻はどうだろう。
 
 僕が東洋医学的なケアをしているので(笑)、100歳ぐらいまで生きるだろうか。
 
 でも、もしかしたら101歳まで生きて、僕の居ない一年を過ごすかも知れない。
 
 その時、妻に、老後の楽しみはあるだろうか。
 
 ずっと一緒に居るようになってからは、2012年の頃のように思いを文字として残すことは、すっかり減ってしまった。
 
 老後に備えて残せるものは、年金以外にも実はあったのだ。
 
 人が幸せに生きていくためには、お金よりもまず、お金を掛けてでも生きていきたい理由のようなものが必要だと、僕は感じている。
 
 だから、妻の老後の助けの一つとなることを願って、ここに自分の言葉を残していきたいと思う。