2011年の四月、進学した先で実際に妻と出会った時、とっさに僕が感じたことは、「思っていたよりかわいくないのが残念だ」であった。
厚かましい人物評をしたものだ。
しかし、初対面の、現時点ではどんな容姿でも構わないはずの相手に「思っていたより」という言葉が湧いてきたので、その時は自分でも驚いた。
また、「残念だ」という、諦めと覚悟のこもった言葉が湧いてきたことにも戸惑った。
ところで、その時の妻は、病み上がりで表情が硬く、更には常用薬の副作用で顔がまだよく腫れており、それらのせいで僕に「かわいくない」顔だと認識されたに過ぎないことをここで強く主張させていただく。
近頃は、美人という褒め言葉を時々頂戴しては、うれしそうな良い顔を見せてくれる妻である。
1995年の秋か冬、姫路市の白国という交差点に掛けられた歩道橋をくぐる寸前、僕は小学校・中学年ぐらいの女の子の顔を見た。
母の運転する車の助手席に乗り、高校へ送ってもらっている途中での出来事だった。
増位本町にあったダイエーかサティかの前を通り過ぎながら、母は、何とか僕を奮い立たせようと、「あんたよりつらいのにもっと頑張っとる人もおるねんで」と激励してくれた。
当時の僕は、持病の関節痛を長引かせすぎて、精神面も自律機能もおかしくなっていた。
車中で母の責任感と僕の反発心とがぶつかり合い、憤りを抱え込んだ僕の意識は遠くに飛んで、役所か病院のようなコンクリート作りの建物をすり抜け、一人の女の子を見た。
「この流れでこの子の顔が見えたということは、今のこの子は明るくかわいく笑っているけれど、本当は何か大きな病気と戦っている子なんだろうな」と思った。
その子の丸顔は、その時から、僕にとっては「自分よりつらいのにもっと頑張っている人」の象徴となった。
とは言え、その体験がすぐに僕を救ってくれた訳ではない。
そこからも更に十年ほどは、自分の殻に閉じこもってばかりだった。
自分のつらさは所詮は「よくあるつらさ」であり、だからこそこれを自力で改善することには需要がある、そのためのノウハウは必ずどこかで誰かの役に立つ、と前向きに思い直せるまでには時間が必要だった。
そうして自分ならではのリアルなモチベーションを手に入れた後であっても、無敵モードとは行かないのが多分人生。
実際に妻と出会い、この人があの女の子だったのかも知れないと徐々に思い出し、付き合え、結婚できて以降も、試練は色々な形で容赦なくやってくる。
運命は完全に僕の味方かも知れないと思えた直後でさえ、ガツンと来る。
実際に妻と出会い、この人があの女の子だったのかも知れないと徐々に思い出し、付き合え、結婚できて以降も、試練は色々な形で容赦なくやってくる。
運命は完全に僕の味方かも知れないと思えた直後でさえ、ガツンと来る。
けれど、自分の健康を立て直すために身に着けざるを得なかった針灸が、今、妻をステロイドから自由にするための挑戦にも使えていることを考えると、ゆっくりであっても、自分のプロセスの全てが綾となり、何かを組み上げてくれているのだと信じることが出来る。
『君の名は。』を見た後、人によっては、もしかしたら、自分の人生には「みつは」の「み」の字の一画目の横線どころか点すら存在しないと思われて、強烈な虚無感に襲われたかも知れない。
それでも、予兆があろうとなかろうと、人はいつか、会うべき人に会う。
その時、否が応でも試されるはずだ。
孤独の中を真面目に踏ん張ることで磨かれてきたはずの、自分自身の力が。
孤独の中を真面目に踏ん張ることで磨かれてきたはずの、自分自身の力が。

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