ステップ 2 : 相手を否定し尽くす。
ただし、相手の否定は、ゴールではなく、単なるスタートである。
ゴールは、真の謙虚さを身に着けること。
その第一段階として、まずは、自分の心の乱れに関わった相手を否定し尽くせる能力が必要なのだ。
順番に力説していく。
謙虚さが心の平和の鍵
極論を言うと、真に謙虚であれば、心が乱れることはない。
「最近の若者はおかしい。自分たちの若い頃は……」と説教じみたことを言う人は、「かつての自分こそが若者の本来あるべき姿である」と大なり小なり思い上がれているから、そう言えてしまう。
「若者の本来あるべき姿は一体どのようなものだろうか」と、若者という存在に対して常に探究を続ける謙虚な学者なら、どのような若者を見ても腹を立てたりはしない。
「大人はウザい」と不満げに言う若者についても同様だ。
もし「大人にはどうしようもなくうっとうしい人もいる」と最初から割り切っていたなら、そのような愚痴は生まれない。
まだ自分が大人になってもいないのに、「大人は若者を理解しきった上で包み込むべき存在」といった期待を固めていたりするから、失望を味わい、ショックで心を乱す。
あらゆる先入観を捨て、「実際に接してみるまで世界のことは何一つとして分からない」という謙虚な思いを日々のどの瞬間でも持てたなら、人生には心を乱している暇など存在し得ないはずである。
謙虚さを身に着けるためには
とは言え、「実際に接してみるまで世界のことは何一つとして分からない」という思いを日々のどの瞬間でも持ち続けることは、多くの人にとって難しく、恐ろしい行為だと理解できるだろうか。
それは、「普通の感性」や「世間の感覚」、更には「日本人らしさ」などの、いわゆる常識といった種類のものに頼らない生き方。
実家の玄関の扉を開ける時でさえ、その向こう側に居る母親が肉体的にも精神的にもどういった状態であるか、一切の可能性を排除しないような生き方。
いつでも全てが起こり得ることを前提とした、安心や安全を依存しない生き方。
この何事も決め付けて掛からない不安定な生き方──別の見方をすれば、水のように自由自在な生き方──をするためには、完璧な自己肯定感が必要になる。
内的な確実さを実感できて初めて、外的な不確実さは受容されるのである。
仮に、内的に不安定なまま外部の千変万化を受け入れようと背伸びしてみても、千や万の可能性に圧倒されて神経をすり減らし、結局は根拠のない安らぎを求めてさ迷い始めるのが落ちだ。
内面が堅実でない人ほど、つい、自分に制御可能な領域のはるかかなたに心の支えを求めるという、無謀かつ危険な生き方をしがちなはずである。
本物の自己肯定
真に謙虚な人は、真の自己肯定感を持ち合わせている。
と言うより、真の自己肯定感が無ければ謙虚さは実践できないと言った方が正しい。
謙虚さとは、世界の緻密さを注意深く観察し続ける姿勢だ。
そこに、自分のことを嫌ったり好んだりしている余裕は無い。
顕微鏡や望遠鏡が、自分の周囲を観察することには不向きなように。あるいは、自撮りモードにしたスマホでは、目の前で起こったハプニングの撮影には間に合わないように。
実は、自己肯定とは、自分を好きになることではない。少なくとも、そこがゴールではない。
自分を好きだと思い続けている間は、自分との比較対象がどうしても必要になる。それは、人によっては他人であったり、過去の自分であったりするけれど、好きという感情の発生源として、何らかの価値基準に依存せざるを得ない。
そこで、もし価値基準としている他人が自分よりも幸せになったり、自分の現状が過去よりも不幸になったりしたら、心の乱れは起きない方が不自然だ。
自己肯定感とは、本来、そのように危ういものではない。
本物の自己肯定感とは、自分への関心から自由になれている感覚。
自分の全身に全霊が収まって、外界との関わりに意識が専念できている状態──それが自己肯定の真に実践された姿だと、僕は考えている。
その時、自分の視界から自分という存在は消え去り、世界には他者しか居なくなる。
自分を肯定するために
自己肯定感の大切さは、世間でもよく言われていることだ。
しかし、自己肯定感が本当に乏しい人にとって、世間のメッセージは、生ぬるいものばかりではないかと僕は心配している。
例えば、「自分を愛せない人間には、他人を愛することも出来ない」といった種類のメッセージがある。
これは、裏を返せば、「他人にいつも気を遣っているのと同じかそれ以上に、自分自身にも気を遣ってあげてね」という、自愛を促すメッセージでもある。
「自分を大切にするのは他人のためでもある」と説き、自己肯定の正当性を訴えているのだが……「他人」を視野に入れたメッセージでは、他人の目を気にし過ぎる人に対しては、僕の経験上では届き切らないように思うのだ。
なぜこのような力弱いメッセージが世間には存在しがちかと言えば、実に多くの人が、恐れからは逃れられずに生きているからだろう。
「あなたはあなた自身を最優先にすべき」というストレートな言葉が少ないのは、その手の言葉を贈った自分が「あなた」に害される可能性を恐れているからではないか。
人間同士の、利益を奪い合う関係性以外の側面に、光があると信じ抜けないからではないだろうか。
それはさておき、「あなたはあなた自身を最優先にすべき」と言われたとしてもなお、なかなかピンと来ないであろう、長きに渡って自尊感情が低い人に僕がお勧めしたいのは、「相手を否定し尽くす」ということだ。
自分の心が乱れた時は、まず、その原因となった相手を、容赦なく否定してみて欲しい。
この時、相手への同情・譲歩・思いやりなどと呼びたくなるものは全て捨て去り、心の底から相手を拒絶し尽くすこと。
相手からの好意や、相手への恩義も、勇気を出して無視し尽くし、否定に徹する。
これを肉親のように身近な相手に実践するのは特に難しいはずだが、情の湧きやすい相手にこそこれをやり遂げた価値は出る。
相手を否定して、否定して、否定し尽くして、自分の意識の置き場所を自分以外からは撤収する。
心の乱れは、自分が「自分だと思い込んでいるもの」を極限まで削りきる、絶好の機会だ。
そして、自分が「自分の立場だと思い込んでいるもの」を、「実際の自分の足の大きさ」にまで削りきれた時、世界の見え方は一変する。
窮屈で歩きにくいと思い込んでいた世界が、新しい自分には、隙間だらけの歩きやすい世界に見えてくる。
苦しさの正体
「あの人の気持ちはよく分かる。けど……!」という枕言葉から愚痴を開始する人を度々目にするが、これは、前で述べた謙虚な生き様とは真逆の姿だろう。
相手の気持ちが本当によく分かるなら、相手が特定の行動を取らざるを得ない事情が痛感されて、軽はずみなことは滅多に言えなくなるはずだ。
分かっていないものを分かっていると豪語するのは、傲慢きわまりない生き方だと言える。
逆に、本人にしか理解しきれていない事情というものは、どのような場合でもちゃんと存在するのだから、人は皆、虚飾に頼ったりせず、自分の人生を根拠にして、堂々と意見を説明しきって良いのだ。
本来、人には、その人がそう感じたという理由だけで、感じたものを正当化する権利がある。
なのに、その権利を疑い、自分ならではの立ち位置をおろそかにして、他者の領分にまで意識を遊ばせたりするから、不平や不満が生まれてしまう。
そのようにして生まれた心の乱れや苦しみは、自分の立場と相手の立場という、必ずしも相いれないものに足をまたげたせいで起こった、股裂きによる痛みのようなものだ。
自分の今の立場から足を離す覚悟も無い癖に、欲張って相手の立場へと侵略を仕掛けたせいで、股裂き状態に陥ってしまったのだ。
他者との関わり方で、自分の思い通りの反応しか許す気が無いものは、人権への「侵略」と呼んで良いだろう。
他者を、自分の正当性を強化するための道具としてしか見れなくなれば、侵略という態度を取ってしまうのも無理はない。
それを防ぐには、自分の正当性や、自分ならではの根拠を、自分自身で見失わないようにすることが大切だ。
もし、あなたの心の乱れの原因として、この種のものが思い当たるなら、どうか安心し、落ち着いて対処して欲しい。
心配は要らない。誰かの保証など得なくとも、あなたは既にオンリーワンの存在だ。ただ、それを思い出せば良い。
例えて言うなら、あなたはこの世界で唯一のスーパーマリオ。
あなたに操作が可能な唯一無二のキャラクター。
あなたには、クリボーとノコノコの強弱や、ピーチ姫とクッパの美醜について論じる資格は十分にあるが、クリボーたちを、マリオとだけは比べてはならない。
他人同士を比較するのは一向に構わないが、他人と自分とを単純に比較してはいけないし、比較すること自体に意味は薄いのだ。
自分の唯一無二性だけは忘れてはならない。
自己肯定とは、他人と自分との比較の不可能性に気付くことでもある。
今回のまとめ
感情的な物言いがやめられない人は、意外かも知れないが、まだ自己を肯定しきれていなかったりする。
どこかに罪悪感や自己不信感を持っていたりして、他者への拒絶が甘かったりする。
自分への保証を欲する余り、自他の境界線を曖昧にしていたりする。
それが心の隙となり、また新しい乱れを生む。
あなたの心が乱れた時、あなたはまず、世界で最も確かな居場所へ帰らなければならない。
相手を否定することは、あなたの帰還を助けてくれる。
宙へ浮かんだ心は、壁を蹴ることでしか進めない。
蹴りをためらう時、その壁には、あなたが以前に貼りに来た、あなたの顔写真がある。
あなたは、その壁をよけることも出来るし、顔写真を回収してから蹴ることも出来る。
本当は、顔写真ごと蹴っても良い。
ためらいの原因は、蹴ろうとした壁に、自分そのものが居ると錯覚するからだ。
あなたの顔写真は、当然、あなたそのものではない。
同様に、他者への否定をためらう時、あなたには、回収すべき何かがある。
自分自身だと思い込んでいる、自分以外の何かがある。
心の平穏を取り戻すためには、あなたは、真のあなたに戻らなくてはならない。
借り物の道徳からも卒業しよう。
あなたが既に苦しいならば、善と信じているものに悪があり、悪と疑っているものに善がある。
癒やしは、心の変化によってのみ訪れ、心の交換によって訪れることはない。
つまり、あなたの心自体は、罪でも悪でも不良品でもない。
あなたの全身全霊は、善悪よりも確かな事実。世界そのもの。
あなたは、他者との縄張り争いから解放されて良い。
あなたの心は、窮屈な場所へも快適な場所へも、体内へも宇宙へも、自由自在に行ける。
最初からそうだった。だからあなたは、不要な苦痛も背負い込めたのだ。
【 ステップ 2 で心の平穏を取り戻せた実体験 】
【 ステップ 3 】へ続く